【椿の名所】秋吉台の長者が森

【椿の名所】秋吉台の長者が森

山口県にある秋吉台の私のイメージは荒涼とした広大なカルスト台地というものでしたので、椿友から「ここに椿を見に行こう」と誘われた時は思わず「え?」と思いました。しかしそこは砂漠のオアシスにも似た森が浮かぶ緑の島で、椿が赤い花を咲かせていたのです。

秋吉台の成り立ち

国定公園であり国の特別天然記念物である秋吉台は、山口県美祢(みね)市の中東部に広がる国内最大規模のカルスト台地です。北東約16 km、北西約6 kmの広がり、台地上の総面積54平方キロメートルという途方もない広さは、珊瑚礁が生み出した石灰岩です。石灰岩の分布は総面積93 平方キロメートル、厚さ500m~1,000m(沖積面下の潜在部を含む)と言います。

秋吉台20230319

秋吉台ができた経緯は、元々は約3億5千万年前に赤道付近に生じた海底火山状の浅瀬の海に形成された珊瑚礁で、プレート運動によって北西位移動、約2億6千万年前に海溝内堆積物中に埋もれて珊瑚礁であった部分が石灰岩層を作り、2億3千万年前に地殻変動により押し上げられ石灰岩層が露出しました。その後、風雨による侵食が進み陥没孔(ドリーネ)や鍾乳洞が形成されて今のような地形になってゆきました。(Wikipedia秋吉台より)

台地面の標高は180 〜420 m。台地は厚東川(ことうがわ)によって東西に分かれ、東側が特別天然記念物の秋吉台国定公園(総面積4,502ヘクタール)です。

車を降りて見渡すと、剥き出しの石灰岩の白い岩肌が目に飛び込んできます。一面に広がるのは枯れ野原で、ところどころに低木や石灰岩が顔を出し、比較ゆるやかに隆起しながら広がっていました。

秋吉台の奇跡のオアシス、長者が森

長者が森は、秋吉台の中央を南北に走る秋吉台カルストロード(県道242号)の中央あたりにあります。この辺りは散策拠点となっており、長者ヶ森駐車場が完備され、トレッキングコースもあります。

駐車場から続く散策路を行くと、白い石灰岩を枯れ草が覆って緩やかに隆起する台地が広がっています。散策にうってつけの、広々としたのどかな風景です。その景色に目が慣れた所に、突然ぽかんと緑の小山が姿を表します。これが「長者が森」です。

秋吉台の長者が森20230319

近づくと生い茂る樹木が壁のように立ち塞がっていました。隙間から入ると中は意外に広い空間になっていて、まるでテントのようです。そのテントを支える柱のように木々が立っていて、見上げると樹冠がテントの屋根のようにはるか上空を覆っています。樹種はタブ、ツバキ、カゴノキ、ヤブニッケイ、シロダモなど60余種とか。高木のタブはさながら大黒柱でしょうか。薄暗くて静かで、鳥の鳴き声が響いています。

中は割と広く、少し窪地になっていて、中央に岩が小山のように集まっています。周囲は木々が囲うように立ち並んでいます。ほぼ等間隔なので人が植えたのだろうと同行していたA氏は言いました。

木々は互いに絡み合ったり、他の木に飲み込まれつつあったりと、熾烈な競争が繰り広げられた様相です。

ツバキは林内にもありますが、外周に並ぶように生えたツバキは外に向かって枝を伸ばして花を咲かせていました。葉が一部焼けているのは毎年2月に行われる山焼きの跡でしょう。

秋吉台の長者が森20230319

「長者が森」ができた経緯

秋吉台にポツンと浮かぶ島のような「長者が森」は、存在自体が不思議ですが、明らかに人為的な存在だと思われます。

当地の説明板によると、平家の落人の子孫が江戸時代に植えたものとあります。

長者ヶ森

平家の一武将大田芳盛は壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、大山(秋吉台)に移り住み、次第に大山周辺を手中におさめ、広大な居館を構え名家として近郷を圧するに至りました。しかし、三代目芳高のころ一族間に内紛が生じ一族は四散しました。ずっと後世(江戸時代)に、大田氏の子孫が祖先をしのんで、かつての居館跡と思われるあたりに木を植えたものが、長者ヶ森であると言い伝えられています。林中には古井戸の跡があり、付近に女郎ヶ池と名づけられた泉水があります。秋吉台唯一の原生林として存在するこの森は、タブノキ、ヤブツバキ、カゴノキ、ヤブニッケイ、シロダモなど60余種からなっています。

(長者が森説明板より引用)

 

やまぐち総合教育支援センターの記事によると、長者ヶ森の長者は鳶の巣の前野家だとあります。

長者ヶ森の林内にある祠は、美東町大田鳶の巣地区の前野某を弔ったものと言われている。長者ヶ森の長者は、鳶の巣にある前野家という記録が残っているが、現在数軒あるうちのどれかははっきりしない。長者とは成り金を表す言葉であり、大田から長門仙崎に通じる主街道沿いの交易で儲かったと推測できる。これは、青景・絵堂・長登銀山の隆盛と大いに関係があったと考えられるからである。

(やまぐち総合教育支援センター 長者が森の祠より引用)

山口県の郷土史や年間行事を記した『防長歳時記』には、長者ヶ森は壇ノ浦の合戦に敗れた平家の残党の一人である大田芳盛が二十数人の残兵士らとともに落ち延びて居を定めた場所だとあります。芳盛は周辺に勢力を伸ばし、子の時代にはかなりの財産を築いていたようです。

長者が森の成り立ち説は平家の落人の大田氏や鳶の巣にある前野家など、いずれも伝説の域を出ませんが、人手によって植林されたことは確かのようです。目の前に広がる荒涼とした秋吉台にかつて人が住んでいたことは想像できませんが、きっと今とは違う風景が広がっていたのでしょう。

長者が森の昔話

『防長歳時記』にはこの地に移住して栄えた大田芳盛の子孫の悲恋が民話として紹介されています。子孫の芳高の時代に、娘が木こりの若者と逢い引きをしている間に不慮の火事に見舞われ、屋敷も焼かれ、秋吉台は1週間も延焼したというものです。頃は3月とありますので、もしかしたら秋吉台の山焼にまつわる話なのかもしれません。あるいは説明板に「三代目芳高のころ一族間に内紛が生じ一族は四散した」とあることが物語の元になったでしょうか。

もう一つ「まんが日本昔ばなし〜データベース」(1975年~1994年にTBS系列で放送されたTVアニメの「まんが日本昔ばなし」の全話あらすじデータベース)というサイトに、「長者が森」の話が載っているのを見つけました。それによると、貧しく米が採れずに蕎麦を食べて生きる村で、ある豪雨の時に、長者がぬかるんだ坂道に蕎麦を敷き詰めて滑り止めにしてその上を村人に歩かせて屋敷に水を運ばせところ、蕎麦が全て蝶に変わって消えてしまった。しばらくすると長者の家は滅び、木々に埋もれて森になった屋敷の跡を長者ヶ森と呼ぶようになった、というものでした。

いずれも長者が森に住む一族の盛衰の話で、今は人の住まないこの場所にかつては人々が住んでいたという不思議な話です。

<訪問日:2023年3月19日(日)晴天>

データベース

【名称】長者が森
【所在】山口県美祢市美東町長登
【備考】長者が森駐車場は無料、24時間使用
【公式サイト】
美祢市観光協会:https://karusuto.com/sports/trekking_course04.html

アクセス

・JR山陽本線新山口駅から車で35分

参考文献

 

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