【椿の名所】ホテル椿山荘と関口台地の椿山

椿山荘20200223

ホテル椿山荘は日本人なら誰でも知っているホテルの一つです。椿山荘の名の由来は、かつてこの辺りが「椿山(つばきやま)」と呼ばれるほど椿が生い茂る場所であったからでした。

名庭園を彩る椿

明治の元勲山縣有朋が目白の高台にあるこの景勝地を自宅として購入したのは1878年(明治11年)。有朋はここで趣味の作庭に勤しみ、「椿山荘」と命名しました。現在のホテル 椿山荘東京の庭は、太平洋戦争で多くが焼失した後に1万本以上の樹木を植栽して新たに生まれ変わったものです。

ホテル椿山荘の庭は四季を通して花が咲き、鳥が囀り、滝から小川が流れ、夏には蛍が飛びかう、都会のオアシスです。植栽されている木々は椿だけではありませんが、椿は意識して多く植栽されているようです。庭園を散策すると散策路沿いに目を楽しませる花の木として椿が目に入ってきます。

例えば、椿山荘ホテル棟の1階から庭へ出てみましょう。
緩やかなスロープ沿いにヤブツバキや園芸品種の椿が植えられています。スロープを下り切ると正面い赤い欄干の橋が姿を現します。橋を見ながら左手の道へ進むと料亭金水の入り口手前に椿山荘記の石碑があります。

これは椿山荘作った山縣有朋が「椿山」と呼ばれていたこの土地を入手し、 1878年「つばきやま」の名を 「椿山荘」と命名した際の感慨を読んだ記念碑です。
「明治十年の西南戦争は既に平定され、国内が平穏となって暇になった日には、しばしば城北の目白に出かけ、その台地に面白さを感じた。この地のことを尋ねてみると、昔は「椿山」と呼ばれていたという。」といった内容です。

この辺りに、潅花絞、ぼんぼりなどが見られます。

潅花絞(かんかしぼり)椿山荘20200223
潅花絞(かんかしぼり)椿山荘20200223
ぼんぼり 椿山荘20200223
ぼんぼり 椿山荘20200223

橋を渡ると細く続く流れの先にも紅い椿の花が見えます。

椿山荘20200223

庭園のいたるところにヤブツバキがあり、在りし日の椿山の姿を再現しているかのようです。

椿山荘20200223
椿山荘20200223
椿山荘20200223

庭の中には園芸品種が点在して植えられています。葉の形が金魚に似ていることから人気のある金魚葉椿は、花の咲いていない季節でも可愛らしさが目を楽しませてくれます。

各地の自治体から贈られた椿の数々

もう一つ特徴的なのが、全国各地の市町村から贈られた藪椿が植えられていることです。神田川に面した冠木門(かぶきもん)から入り、そば処無茶庵の方に向かって左手に続く階段を昇る途中、斜面沿いには植えられているのがそれです。これは椿山荘 周年記念行事として行われた植栽です。それぞれの木には寄贈した市町村の名札が立てられています。山形有朋にゆかりの山口県萩市から贈られた椿ももちろんあります。

庭園以外の椿

椿に所縁のある椿山荘では、椿をテーマにした要素をあちらこちらで見ることができます。庭園に植えられた椿はもちろんですが、それ以外にも。

例えばレストラン。庭園内のそば処「無茶庵」で提供される天ぷらは、椿油を使った天ぷらです。石焼料理の「木春堂」は「椿」の文字を開いて名付けたものなのでしょう。

館内のあちらこちらに椿をモチーフにした絵画や作品が展示されています。特に私が好きなのは、ホテル棟の入り口入ってすぐを飾る二つの絵画。入り口の左右に飾られた絵の二人の女性はともに髪に椿を差しているのです。

田村能里子「裸足の淑女」右より部分 椿山荘蔵
田村能里子「裸足の淑女」(右)より部分 椿山荘蔵  ※許可を得て撮影しています
田村能里子「裸足の淑女」左より部分 椿山荘蔵
田村能里子「裸足の淑女」(左)より部分 椿山荘蔵  ※許可を得て撮影しています

「つばき山」のいわれ

この椿山荘のある武蔵野台地東縁部の関口台地あたり神田川に面したこの辺りは、昔は椿が多く「つばき山」と呼ばれていました。

ホテル椿山荘のHPに「南北朝の頃から椿が自生する景勝地であった」と書いてありましたので、問い合わせをしたところ、江戸時代の「若葉の梢」という江戸時代の江戸北西部の地誌に、「 椿山は鎌倉合戦の頃、此辺に伏勢を入置きし事あり。その頃より椿多くありて名もきこえけると言ふとぞ 」と 書かれていることを教えていただきました。

「若葉の梢」 の著者は金子直徳(1750-1824)という俳人でした。鎌倉合戦は、元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉幕府を攻め滅ぼした戦乱なので、鎌倉時代末期には椿が生い茂る椿山として知られていたことになります。

江戸時代の名所を記した『続江戸砂子』(1735年)には、「椿山」が挙げられています。牛込関口に水神社があり、この辺りが椿山と呼ばれることが記されています。

江戸時代の歌川広重(1797-1858)の 版画、「名所江戸百景 せき口上水端はせを庵椿やま」(=「関口上水端 芭蕉庵 椿山」 )にも、「椿山」の言葉が出てきます。

名所江戸百景 せき口上水端はせを庵椿やま 歌川広重(1857) 東京試料より

昭和27年(1902)の 「椿山荘記」( 藤田伝三郎の長男・平太郎の妻、藤田富子 の記録) では「昔は椿が多かった」と書かれているので、その頃にはもう面影は変わっていたのでしょうが、それでも、「椿山荘」や「椿山」の名によって、かつて椿が生い茂る場所であったことが伝えられています。

椿坂

椿坂の云われについては、椿山荘から江戸川橋方面に坂を下って中ほど左側にある案内版に見ることができます。これによると、新目白坂の南にある目白坂のバイパスとして明治20年代の半ばごろ新しく作られた坂で、従来の目白坂に対して新目白坂と名付けられたとあります。さらに明治末に書かれた『新選東京名所図会』からの引用として、「音羽八丁目と同九丁目間より西の方関口台町へ上る坂あり椿坂という、近年開創する所、坂名は椿山の旧跡に因むなり、里俗又新坂とともいへり、道幅広く、傾斜緩なり、」とし、「椿坂、新坂ともいう」と記しています。あります。

案内板には江戸切絵図の引用として幕末頃の付近の地図も載っています。それを見ると神田川と平行するように高台を通る道に「目白坂」と記してあり、一帯はびっしりと藩邸や寺院、武家屋敷などが立ち並んでいます。室町時代に椿山と言われ椿の森が生い茂っていたと思われる光景は幕末には既になく、名だけが残っていたことがわかります。

『新選東京名所図会』は

椿坂下の関口パン

散策のあとは椿坂を下りきった右手の関口パンでランチやお茶をするのもオススメ。関口フランスパンは、明治21年(1888年)小石川関口教会(現関口教会)の孤児院付属、聖母仏語学校製パン部として創業しました。日本における本格派フランスパンの誕生といえましょう。その後、第一次世界大戦がはじまりフランス本国から援助金が途絶えたため、教会の信者であった初代社長高世啓三が工場経営を引き継ぎ、関口町に新工場を建設したのが関口フランスパンです。

ちょど昼時だったので関口フランスパンでランチに。日替わりランチセットのクラブハウスサンドは、表面を香ばしくパリパリに焼いた薄いパンに、からしマヨネーズを塗り、ハム、卵、レタス、トマト、照り焼きチキンの具をたっぷりと挟んであって、味もボリュームも満点。添えてあるポテトサラダも優しい味。

私の祖父母は昭和初期に椿油の製造販売をしながら音羽に住んでいました。まだ幼かった父や叔母や叔父はすぐそばの関口台町小学校に通っていたそうです。私は子供の頃から祖母や叔母から時折「関口パン」の名を聞きました。叔母は今でもフランスパンが好きですが、それはきっと子供の頃に関口フランスパンの味を覚えたからなのでしょう。

<訪問日:2018/4/9,2019/3/17,2020/2/23ほか>

データベース

【名称】ホテル椿山荘東京
【コレクション】園芸品種と日本各地のヤブツバキ
【花期】12月に山茶花、2〜3月に椿が咲く
【所在】〒112-8680 東京都文京区関口2-10-8
【備考】
・開園時間:ホテルや庭園レストラン利用者に解放されている。
・問合先:TEL03-3943-1111(代表)
・公式サイト:https://hotel-chinzanso-tokyo.jp

アクセス

  • JR目白駅(山手線)の「目白駅前」バス停から都バス白61系統に乗りホテル椿山荘東京前 下車(バス停は改札を出て目の前の横断歩道を渡った左手5番バス停、もしくは右手8番バス停から乗車)
  • 東京メトロ有楽町線護国寺駅もしくは江戸川橋駅から徒歩10分

参考資料