日本に自生するヤブツバキ(camellia japonica)は北海道を除く日本全域に分布しています。その自生北限地、つまりはツバキ属の北限地であるのが秋田県男鹿半島の能登山と青森県の夏泊半島の椿山で、2県にわたる国指定の天然記念物に指定されています。夏泊半島の椿山の椿は高く伸びる木もありますが、強い海風のせいで背が低く太く曲がりくねった椿の木々が密生する場所もあり、その奇観は印象的です。
椿山の位置と地勢
夏泊半島は陸奥湾の中央付近に飛び出た部分で、中央部は夏泊山地、半島の北端の突端部が夏泊崎です。
夏泊半島の先端から東に広がる野辺地湾に面した丘陵一帯が通称、椿山と呼ばれるあたりです。海抜12mから60mくらい、中央部分の湿原とその中を流れる椿川によって東西に別れており、東西共に海を臨む斜面は椿の純林が広がります。東側には椿神社が鎮座しています。複雑な地勢は下図で見ると分かりやすいです。
2019年5月終わりに椿山を訪ねました。ゴールデンウィークに花盛りだった花がまだ少しだけ咲き残っています。たまたま山の手入れにいらした地元の方に声をかけると、「今年はよく咲いていたよー」「真っ赤できれいだったよー」と。花の盛りには全山紅色に染まる景色だそうなので、今度はちゃんと花盛りを狙って来なくては、と思いました。
椿山の中に入ってみると、湿地と椿川によって分かたれた東と西では若干様相が違います。
椿神社が鎮座する東側は、海沿いから神社の鳥居をくぐって神社の裏手に回るとうっそうとした社叢が広がっており、他の木に混じって椿の大木が見られます。幹周り数十センチの木が数本まとまって生えていて、樹高は7〜8mといったところでしょうか。落ち葉が林床部を覆い、わずかな木漏れ日が届く程度の暗い林です。
対して椿川を挟んだ西側の林相は、椿の純林で、東に比べて樹高がかなり低くて2〜3mくらい。何よりも特徴的なのは木の姿です。幹は根元から倒れ、ねじ曲がり、のたうち、枝はぐねぐねと広がり、絡みあっています。まるで地を這う蛇かヤマタノオロチのよう。こんな迫力のある椿林は他にはないでしょう。
名残の花を探しながら椿林の木々を眺めながら山道を登ってみました。左右に続く椿の木々は強い海風のために一本一本が独特の樹形に育てられています。その姿は風雪を耐えてこの地で生き抜いてきたその木の歴史のようであり、味わい深く感じます。木の背が高すぎないので林床部まで陽光が届いて明るい林です。そのために下草がものすごい勢いで伸びてしまうので、7月に来た時は入り口までしか登ることができませんでした。今回は中腹まで行かれます。
曲がりくねり、地を這うように生える椿が織り成す奇観は迫力があると同時に面白くもあります。花の頃でなくても楽しめる椿林です。
歩くとこのような感じです。(2019/5/26)
椿山の西側を外側から眺めると、山の中腹を覆う低い樹冠が密生しているのがわかります。複雑に伸びた幹や枝が広がり、交錯し絡み合ってできた林相が、外から見ると樹冠が密にモコモコして見えるのです。
花についても椿山に咲く花は色合いや大きさ、形などにかなり多様性が見られて面白いです。紅色、濃いピンク、大きいもの小さいもの。雄しべが揃っているもの乱れているもの。中には雄しべの葯が退化したものがみられます。このことは椿の研究家である桐野秋豊氏も『花の旅ツバキ』の中で触れており、「侘芯ツバキの集団発生地は全国でもここだけ」と書いていました。
7月に来た時には実がなっていました。
椿山は山といっても通路が付けられているので容易に歩くことができます。また夏泊半島先端の夏泊崎から東田沢の半島の東側一帯、海沿いの県道9号(通称、夏泊ほたてライン)を車で走るだけでも山側に椿を眺めることができます。
椿山についての記述
青森県公式サイトには下記のように紹介されています。
椿山は椿神社の境内一帯で面積約17ha、海抜5~160mの丘陵地で、風致保安林に指定されている。椿山の群落は、大小1万本余のヤブツバキからなり、大きいもので、地上20~30mで幹囲 2mにおよぶものもあり、特に1~1.5mのものが多い。高さは6m内外、まれに12mに達するものもある。開花期は5月上旬~中旬で紅色の花を開く。この花が咲いている様子は「全山紅色となり燃える如し」と賞賛されている。
青森県庁文化保護課 ツバキ自生北限地帯より
少し古い記録になりますが、1999年に地元の平内町郷土研究会が発行した『平内町 椿山の椿』(五島秀次郎著)には詳しくこの椿山のことが書かれています。
それによると、天然記念物に指定された面積は民有地22haのうち19ha余と記されています。椿の木の大きさは大小あり、海風(ヤマセ)のを受けて背が低く幹が太く、特に海岸近くに接しているのは背が低くて2 mほどで、中央部の湿原に近いものは12mくらいある、とあります。幹周囲は地上1.05mで1.2m以上のものも多数あり、まれに地上60cmで1.56mの幹周囲のものもあったそうです。すでに当時の記録で老木となり枯れている木も多数ありと書いてありました。
椿山は江戸時代から椿の生い茂る場所でした。江戸時代に菅江真澄(すがえますみ 1754 – 1859)は、東北地方の旅行記『津河呂の奥(津軽の奥)』の中で「ここらの椿咲きたるは巨勢の春野のたま椿も之をこそよばねと」と絶賛しています。
椿神社
椿神社の案内板で沿革を見ると、文治(1185年頃)を始め椿山にまつわる伝説の祠があった。天正年間(1573〜91年)には椿大明神と称した。明暦(1655〜57年)年中より椿大明神を祀る。元禄11年(1698) 4月3日、椿宮女人を神霊として建立、安永2年(1753年)現在の社号の椿神社に改称、その後、明治の神仏分離令により仏教色が一掃され明治6年(1873年)村社とされ猿田彦神(現在の祭神)を祀る。今の社殿は1986年に改装。
と、幾度も細々と変遷してきたことがわかります。
現在の猿田彦神が勧請されたのが明治政府の政策によるもので、もともとが椿山にまつわる伝説やそれにまつわる女性を祀っていた場所でした。
椿山の伝説と椿山の形成
椿神社にはお玉の悲恋の伝説が記された案内版があります。
その昔、船で東田沢に交易に来ていた越前商人の横峰嘉平は村の娘お玉と親しくなり、ゆくゆくは夫婦になろうと約束していました。嘉平は所用のために国に帰ることになるとお玉は京の女性が使う椿の油が欲しいので今度来る時に椿の実を持って来て欲しいと頼みます。約束の翌年もその次の年も嘉平は帰らず、待ち焦がれたお玉は嘉平を深く恨んで海に入って死んでしまいます。村の人々は海が見えるこの地にお玉の墓を作ってやります。3年後に嘉平は約束の椿の実を持って戻りますが、お玉の死を知り、慰めに椿の実をおたまの墓の周りに埋めました。それが芽を出して年々繁殖し、今日の椿山になったと言うものです。椿の花の枝を折るとお玉が現れて「その花を折らないでください」と言うのだそうです。
椿にまつわる椿山の伝説は少しづつ形を変えたバリエーションがあります。江戸時代の菅江真澄も紀行文で神社の縁起として、他国の材木商の船頭と浦の娘が恋仲になり、帰国の折に椿油を取るために実を持ってきて欲しいと言った話を、柳田國男は「椿は春の木」の中で、小湊にくる材木商の船頭に土地の女性から椿油を絞るために椿の実が欲しいと言った話を載せています。地元に伝わる民話には男が越前の薬売りであるというものもあります。
いずれもよそから来た男と恋仲になった土地の娘が男が帰らぬことを嘆いてなくなり、遅れて戻った男が娘を悼んで椿の種子を撒き、それが年月を経て椿山となったという大筋は似ています。つまり伝説によるともともとは土地に自生していなかった椿を他所から持ち込んで栽培した結果が椿山の自生林、ということになります。
椿山の伝説と椿山の形成については諸説あります。別の機会に記事にまとめて見たいと思います。
<訪問日:2018年7月22日,2019年5月26日>
データベース
【名称】夏泊半島椿山(ツバキ自生北限地帯)
【花期】4月下旬から5月中旬。最盛期は5月上旬。
【所在】青森県東津軽郡平内町東田沢字小湊越(北緯41度9秒東経140度54分28秒)
【備考】
・国指定天然記念物(1922.10.12(大正11.10.12))
・問合先:平内町教育委員会 TEL.017-755-2565
・公式サイト:青森県庁文化保護課https://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/kinen_tennen_1_02.html
アクセス
- JR目白駅(山手線)の「目白駅前」バス停から都バス白61系統に乗りホテル椿山荘東京前 下車(バス停は改札を出て目の前の横断歩道を渡った左手5番バス停、もしくは右手8番バス停から乗車)
- 東京メトロ有楽町線護国寺駅もしくは江戸川橋駅から徒歩10分
参考
- 文化庁 文化遺産オンライン: https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp
- 青森県平内町: http://www.town.hiranai.aomori.jp/index.cfm/7,132,30,129,html
- 青森県庁文化保護課 ツバキ自生北限地帯:https://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/kinen_tennen_1_02.html
- 青森県の歴史散歩,山川出版,2007
- 平内町 椿山の椿,五島秀次郎,平内町郷土研究会,1999
- 日本列島花maps花の旅「ツバキ」,桐野秋豊監修,北隆館,2006